この記事では、パレスチナ問題をいちばん丁寧に解説していきます。
前回の記事ではパレスチナ問題を小学生でもわかるようにかなり簡単にかみ砕いてご説明しました。
この記事では、難易度を引き上げてパレスチナ問題の歴史を更に詳しくご説明します。わかりやすさは損なわないよう、起承転結で見ていきます。大学受験の記述や論述でも通用するような徹底解説をしていきますね。時事ネタとして就活でも重要なので大学生も要チェックです。ではやっていきましょう。
パレスチナ問題の「起」
まずはじめに、大学受験でこの「起」「承」といった前半部分はパレスチナ問題として問われることはありません。その時代時代に合わせて知識を問われることはありますが、現在まで続くパレスチナ問題から逆算して記述しなければならないことはないでしょう。
ですが、パレスチナ問題について考える際に必ず必要となってくる知識です。「ユダヤ人って初めて聞いた」くらいのレベルではパレスチナ問題を記述することはできませんよね。前提知識がある程度なければその後の話がわからなくなってしまいます。
ということで、時系列に沿って書いていきます。それぞれの時代で習う知識を、パレスチナという土地を通して縦の歴史に繋いでいきましょう。
文明の幕開け~ユダヤ教ができるまで
パレスチナ問題よりもーっともーっと昔、ユダヤ人ができる頃のお話をします。
はるか昔、紀元前3000年ごろまで戻りましょう。文明の幕開けの頃です。世界史で「ちょっと戻ろう」を繰り返してここまで戻れたらかなり記憶が定着してることになりますね。
ナイル川のあたりにエジプトができます、エジプト王国の歴史で特に覚えておくべきことは「アメンホテップ4世」です。このアメンホテップ4世が、宗教改革というものを行いました。これまで今の日本と同じく多神教だったところを、アトンという神のみを神と認める一神教の宗教を作り上げました。これはすぐには定着せず忘れられてしまうんですが、一神教というスタイルの始祖がこのアメンホテップ4世です。
そこからヒッタイトという強い国ができ、海の民によって滅ぼされ、大きな国はオリエント(パレスチナ問題の舞台である中東を中心とした一帯)になくなります。国がなくなって、ただいろんな人種の人が入り乱れた空間になっている状態を思い浮かべてください。○○国という所属がなくなり、ただのアラム人・ただのフェニキア人・ただのヘブライ人などが存在します。
ここで登場したヘブライ人。これが後のユダヤ人です。アメンホテップ4世が考え出した一神教というシステムを受け継ぎ、のちにユダヤ教を作ることになります。
ヘブライ人は遊牧していましたが、カナンの地に住み着くようになりました。このカナンの地というのが今のパレスチナ地方です。ここでやーっと出てきましたパレスチナが。ヘブライ人=ユダヤ人がパレスチナに最初に住んだ瞬間です。
で、このカナンの地で飢饉に遭い、ヘブライ人はエジプトに移住します。ここでエジプトで後から来た民族ということで奴隷化されてしまいます。悲劇の第一歩だよね。この奴隷化がつらくて、やっぱりパレスチナ(カナンの地)に戻ろうよとなる。この時率いていたのが旧約聖書や十戒で有名なモーセです。この出来事は出エジプトと言われています。
出エジプトしたモーセ率いるヘブライ人ですが、パレスチナ(カナンの地)には既にいろんな人が住んでいました。この人たちと戦う歴史になるのですが割愛して、最終的にソロモン王の時代にめちゃくちゃヘブライ人の国は栄えました。
国が栄えたということは、ここから衰退していくということでもあります。
ソロモンの死後、ヘブライ人の国はイスラエル王国とユダ王国に分裂してしまいます。イスラエル王国はすぐに滅ぼされます。そして中に住んでいたヘブライ人は散り散りになってしまいました。ユダ王国の方も新バビロニア王国という国に滅ぼされてしまい、今度はこの新バビロニア王国の首都バビロンで奴隷化されてしまいます。これがバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
もう既に2回奴隷化され、パレスチナを追い出されるという悲劇が起こってしまいました。ユダヤ人の歴史は悲劇の連続です。
この後、新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシアに滅ぼされると、ヘブライ人はようやくパレスチナに戻ることが可能になります。ここでヘブライ人を解放したのはキュロス2世という人です。パレスチナに戻ったヘブライ人は、もともとユダ王国の中心部族であるユダ部族の人々だった。だからユダ部族=ユダヤ人と呼ばれるようになります。
そしてユダヤ人は、こんな悲劇がもう起こらないようにと、神への信仰を強く持とうとします。ここでユダヤ教が生まれるんですね。ヘブライ人はユダヤ人となったわけです。
支配の繰り返し~ユダヤ人離散まで
アケメネス朝ペルシアがパレスチナにユダヤ人を戻してくれて、エルサレムに神殿を建てたりするんだけど、アケメネス朝ペルシアも滅ぼされてしまいます。アレクサンドロスの大帝国がまず支配し、その次はエジプトのプトレマイオス朝とシリアのセレウコス朝が小競り合いして結局シリアのセレウコス朝に支配されます。
そしてそして、このシリアのセレウコス朝のもとで、やっぱりユダヤ人で独立したい!となり、マカベア戦争を経てユダ王国ハスモン朝という独立した国家を作ります。
このユダ王国ハスモン朝、世界史をがっつりやってきた人でも知らなかったりします。実際あんまり重要じゃなく、かなり弱い国家でした。200年くらいで終わっちゃうしね。
というのも、超イケイケのローマ帝国が来ちゃうからです。ローマ帝国に神殿などなどは破壊され、ローマ帝国の支配下に入ります。ローマの支配下の中でユダヤ教を信じることは許されていました。ここでそれをまとめていたのはヘロデ王です。
ちなみに、ヘロデ王の時代に、イエス・キリストが生まれて、処刑されます。これは歴史的には一大事件なんだけど、イエスが処刑された当初はまだキリスト教というのは始まったばかりで大きくなっていないから一旦置いておこう。
ユダヤ人に話を戻すと、ヘロデ王が死んだ後完璧にローマの属州とされてしまいます。それに反発してユダヤ戦争を起こすも、負けてしまいます。これでユダヤ人は地中海各地、つまり今のヨーロッパ方面へと離散してしまいます。これをディアスポラやユダヤ人離散といいます。
ここまででも、エジプトでの奴隷化(からの出エジプト)・バビロンでの奴隷化(バビロン捕囚)・ディアスポラ(ユダヤ人離散)、と3回悲劇が起こっていることがわかるでしょうか。
逆に、いろんな国が長い歴史の中で勃興していく中で、「ユダヤ教を信じる」という一つの理念のもとに集まったグループが形を変えてもずーっと存在しているということにもなります。そのくらい、ユダヤ教の結びつきというものは強いんだよね。違う国に支配されようが、他の土地に移動して根付こうが、ユダヤ教を信じたままでいればユダヤ人だからね。
もうひとつ余談で、ユダヤ人は、ユダヤ教を信じている人だけが救われるという選民思想を持っています。そこがキリスト教やイスラム教と違うところです。でもユダヤ教からキリスト教が出来て、そこからさらにイスラム教へと派生していくので、おおもとがユダヤ教というところは全部同じです。
そのため、パレスチナはユダヤ教にとってもキリスト教にとってもイスラム教にとっても大切な土地なんだね。
アラブ人定住~十字軍の終わりまで
ユダヤ人の話は一旦おしまいなんだけど、歴史の主人公をアラブ人にバトンタッチしましょう。パレスチナの地に住んでいるのはここまでの話だと今ローマってことになるよね。ローマはじきにキリスト教を国教化します。パレスチナはキリスト教圏だった。
でもその後、パレスチナやイスラエルの近くのメッカというところでイスラム教が生まれます。このイスラム教は勢いが凄くて、一気に中東を制圧しちゃうんだよね。そこでパレスチナはイスラム教のものになる。ここでアラブ人がパレスチナの地に住むようになります。
しかし、今度はトルコ系のセルジューク朝が勢力を伸ばしてきて、パレスチナを支配してしまいます。キリスト教の国だったビザンツ帝国もかなり圧迫されてしまい、もっと西の方(今の所謂ヨーロッパのあたり)のキリスト教世界にヘルプを求めます。
そこで、西のキリスト教世界が十字軍と称して、エルサレムの聖地を奪還しようと戦いを仕掛けてきます。この十字軍、実に8回に及ぶ遠征でした。十字軍はエルサレムを奪還しエルサレム王国を建国してしまいます。
しかし長くは続かず、イスラム世界に取り戻されてしまい、パレスチナのキリスト教勢力はじきに消滅します。その後パレスチナの土地は、マムルーク朝の支配となり、次にオスマン帝国という大きな帝国に支配されることとなりました。このオスマン帝国は今でいうトルコの前身です。第一次世界大戦では非常に大きな役割を担う国なのでしっかり覚えておきましょう。
はー--長かった!ここまでが起承転結の「起」です。気が遠くなりそうだけど、ユダヤ人とアラブ人のパレスチナの土地を巡るいざこざが見えてきたかな?
途中キリスト教が出てきて、トルコも出てきたね。パレスチナに住むアラブ人がトルコに支配されている状態ってのを覚えておいて、次にいきましょう。
パレスチナ問題の「承」
次は起承転結の「承」。ヨーロッパの国々が強くなっていった時代。ユダヤ人は迫害され、アラブ人は搾取されていきます。
迫害されるユダヤ人
まずは、地中海世界に散り散りになったユダヤ人がどうなったか見ていきましょう。キリスト教が盛り上がっていくにつれて、ユダヤ教は「キリスト殺し」として迫害されていきます。ヘロデ王が処刑しちゃったんだったね。
土地を持たず迫害されているユダヤ人は、農業などの安定した仕事に就くことができません。そのため、消費者金融のような仕事を主にするようになります。昔のキリスト教社会、特にカトリックでは商業自体があまりいい職業とされていませんでした。日本も士農工商といって一番下の位にされていたよね。
ユダヤ人は商人にもなれず、お金を貸す「高利貸し」の代名詞となっていきます。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』なんかで出てきますよ。
そのころ卑しい仕事とされていた「高利貸し」だけど、今の感覚からするとどうだろう。意外に儲かるんじゃないの?と思いますよね。その通り。ユダヤ人は迫害され差別されていくにも関わらず、高利貸しで裕福になっていくのです。これがまた嫉妬の種となり、迫害はヒートアップしていきます。
キリスト教徒と結婚できなかったり、ユダヤ人は特別に税が課されたり、時には虐殺事件が起こったり、ゲットーと呼ばれる居住区に無理やり住まわされたりしました。ひどい歴史だよね。大昔の奴隷と変わらない。
そんな風に歴史が進んでいく中で、ヨーロッパ社会は各国がどんどん力をつけて大きくなっていきます。今もあるフランスやイギリス、ドイツやスペインといった国々が立ち上がってくる。これを列強の時代といいます。列強がどんどん強くなるためには、国としての団結を強めなければいけません。これをナショナリズムといいます。
各国がナショナリズムを強めていく中で、ユダヤ人という異端者を排除しようとする動きが強くなります。フランスのドレフュス事件などはこの反ユダヤ主義の流れで起こりました。ユダヤ人というだけで軍人が終身刑の有罪判決になってしまうという事件です。また、ロシアではポグロムと呼ぶユダヤ人に対する破壊行為が起こります。
ちなみに、ヨーロッパの各地でユダヤ人は迫害されていくんだけど、ドイツという国は出来るのが遅くてできたばっかりだったこともあり、ユダヤ人を受け入れます。ドイツ帝国が出来た時、ユダヤ人に正式なドイツ国民としての権利を得られます。だからたくさんユダヤ人が住んだんだけど、これが皆も知るところのナチスの迫害に繋がっていくんだね。
ちょっと先の話をしちゃったけど時を元に戻します。そんな反ユダヤ主義を受けて、ユダヤ人の中に「パレスチナに還りたい」「自分たちの国が欲しい」という意識が強くなっていきます。これをシオニズム運動といいます。
ついに、ユダヤ人はスイスのバーゼルで「第一回シオニスト大会」を開催し、パレスチナにユダヤ人国家を建国することを発表します。勝手に建国するわけにはいかず、大国に「いいですよ!」と言ってもらう必要がありました。
シオニズムに燃え、大国の承認を待つユダヤ人。これが第一次世界大戦前の話です。
支配されるアラブ人
ではその頃のアラブ人を見ていきましょう。前章の最後にお話ししたように、アラブ人はトルコ人のオスマン帝国に支配されています。
オスマン帝国のことをお話します。トルコ人は、中国の万里の長城よりも北のモンゴル高原にもともと住んでいました。このトルコ人が長い時間をかけて中央アジアに移動し、今のトルコがあるあたりに進出してきました。それがセルジューク朝のあたりです。
ここでオスマン帝国を建て、600年以上も続くイスラム史上最長の王朝になりました。ものすごく強くて、ヨーロッパ世界まで支配していく勢いです。実際はウィーンを包囲するところまでヨーロッパ世界に進出していました。これが第一次ウィーン包囲です。
その後スペインにレパントの海戦で敗れ、第二次ウィーン包囲に失敗し、そこから衰退していきます。カルロヴィッツ条約でオーストリアにハンガリーを獲られ、ロシアにクリミア半島も獲られ、ギリシア独立戦争でも負けてしまいます。国家を立て直そうと頑張り、ロシアとのクリミア戦争に辛くも勝利しますが、いろんな国の力を借りてもうボロボロでした。このボロボロさを見てヨーロッパの列強は「食いつぶしてやる」と思うんですね。
「食いつぶしてやる」と舐められた状態のオスマン帝国に、更に支配されているのがアラブ人です。アラブ人も同様にヨーロッパ人に舐められている状態です。トルコ人に支配されてる状態から抜け出したいと思うアラブ人は、ヨーロッパ人にも利用されていくことになります。
この頃、第一次世界大戦前は、キリスト教世界の西ヨーロッパ諸国がものすごく強かった。植民地をたくさん持って有色人種を支配していました。これに対抗するために、イスラーム世界でもイスラム改革運動が起こります。
一言でいえば自立しようぜという動きなんですが、パン=イスラーム主義という「イスラム教徒で集まって国家を作ろう!」とする動きと、アラブ文化復興運動という「アラブ文化にのっとったアラブ人の国家を作ろう!」とする動きと、「アラブ人の国はいいけど、アラブ文化は捨てて西洋化していこうよ!」という動きとの三つ巴になってしまいます。
この3つが複雑に絡み合って現在があるので、受験に直接はあまり出ない範囲ですが覚えておきましょう。よくニュースで聞くイスラーム原理主義なんかはここから派生した言葉です。
この中のアラブ文化復興運動がパレスチナ問題に繋がっていきます。アラブ文化復興運動がなぜ起こったか、背景を見ていきましょう。
オスマン帝国は一度めちゃめちゃ大きな国になっていたので、人種も文化もいろんな人がいる国になっていました。多国籍多文化国家です。この時代、多国籍多文化国家はうまく国としてのまとまりが作りづらく、強い国になるのは非常に難しかったという背景も覚えておきましょう。ナショナリズムがうまく進まないと列強に飲み込まれてしまいます。
いろんな人が住んでいるけど、多くの人に共通しているのはイスラム教という宗教だった。だからオスマン帝国のアブデュルハミト2世は、まずパン=イスラーム主義を利用してイスラムで固まろうという方針でいきます。でもそうするとオスマン帝国以外のイスラム教の国々とも一緒にならなければなりません。それを嫌がったオスマン帝国内の人が「人種や宗教の違いも超えてオスマン帝国で固まりたい」とオスマン主義を唱え始めます。そして青年トルコ革命という反乱がおきる。
でもそんな内部事情をヨーロッパ諸国は待ってくれないので、ロシアとの戦争で負け、もともと少なかったオスマン帝国内のキリスト教徒の領土がぐんぐん縮小されました。それによってイスラム教の比重が更に増え、「オスマン主義ってなんだったん?イスラム教しかおらんやん」となります。そして「じゃあトルコ人じゃない?オスマン帝国にいるのはトルコ人!トルコ人で固まろう!」というトルコ民族主義が出てきます。
ここで登場するのがアラブ人ですね。オスマン帝国内にいるアラブ人からすると、もともと支配されていたにも関わらずトルコ人の団結が強まってくるといよいよこちらもアラブ人で固まっていかなければなりません。ということでアラブ文化復興運動が始まりました。
ここまでを「承」とします。
パレスチナ問題の「転」
次は起承転結の「転」。時は第一次世界大戦中。イギリスによる嘘がきっかけで、アラブ人とユダヤ人はイスラエルを巡って対立していくことになります。
オスマン帝国はまず「瀕死の病人」と呼ばれるほど弱っており、第一次世界大戦で食いつぶされることが誰の目にも明らかになりました。そこで起こったのがイギリスの三枚舌外交という「嘘3連発」です。
イギリスの三枚舌外交
まず、第一次世界大戦が始まった序盤である1915年にフサイン=マクマホン協定というものが結ばれます。イギリスが、アラブ人リーダーのフサインに「オスマン帝国を倒すために頑張ってくれたらパレスチナにアラブ人の国を建てていいですよ」というわけです。
これに従って、アラブ人はオスマン帝国内で大暴れ。この経緯は映画「アラビアのロレンス」で詳しく描かれています。
ですが、翌年1916年にはサイクス=ピコ条約というものが結ばれていました。これはイギリス・フランス・ロシアの間で「オスマン帝国をみんなで割って支配しちゃおうぜ!」という内容で、そこにアラブ人の取り分は示されていません。「パレスチナの地はキリスト教・ユダヤ教・イスラム教にとって大切な土地なので、国際管理にしようね」という約束までしてしまっています。
そして最後、第一次世界大戦終盤の1917年にはバルフォア宣言というものが出されます。これは「ユダヤ人にパレスチナでのユダヤ人国家建設を認める」というものだったんですね。
なんでこんなわけのわからない約束をイギリスがしたかというと、うーん、まあいろいろと理由はあるのですが、まず1つはオスマン帝国をやっつけるために近場にいるアラブ人を決起させた方が簡単というのは間違いありません。イギリス軍がオスマン帝国まで来るの大変ですからね。いろんな戦線が入り乱れていくので、現地で処理してもらうに限ると思われてアラブ人が利用されました。
そして次にユダヤ人ですが、お金持ちが多いので敵国(ドイツ)に味方されてしまうと武器を大量に買われたりして困るわけです。だからユダヤ人を味方につけておきたくてバルフォア宣言を出しました。ユダヤ人の財閥のロスチャイルドから逆に資金を引き出したいという狙いもあります。
このめちゃくちゃな外交がなぜ成り立ってしまったのか。それは第一次世界大戦前の大国の結びつきを見ているとわかります。
そもそも大国同士だって、あっちで三国協商、こっちで三国同盟、と色んな結びつきや約束をしておきながら、裏では別で約束をしていたりするという現象が横行していました。そもそもが口約束でしかない騙し合いだったんだよね。でも「こう言いましたよね」という口約束があれば戦う理由になるからとりあえずしていただけ。みんな裏の裏を読み合っていた。
きっとアラブ人とユダヤ人もこの約束を完全に守られるとは思っていなかったと思うけど、それで逆に敵に回られて叩かれたり支配されたりするくらいなら今協力して少しでも有利に進めようとした結果が、この三枚舌外交を許してしまったんですね。
イギリスが嘘をつきまくっていたことはロシアに革命が起こってから新聞で暴露されたんですが、列強諸国や国民も「うんまあ…搾取するためには仕方ないしよくある嘘だよね」みたいな感じだった。列強の国民一人一人が既にアラブ人やユダヤ人を舐めていたんだよね。だから政府や軍部だけの問題じゃないんです…。
前半部分に比べてこの「転」は短いですが、受験では必須です。3つの条約の名前と内容はしっかり覚えておきましょう。イギリスの三枚舌外交ではなく二枚舌と呼ばれることもあります。
ここまで長々と歴史を語ってきましたが、「パレスチナ問題の背景は?」と聞かれればまずこの「イギリスの三枚舌外交」があげられるといっても過言ではありません。そのくらい重要な事件です。
パレスチナ問題の「結」
では最後、起承転結の「転」。今に繋がるお話です。ユダヤ人国家が認められ、それに反発したアラブ人と戦います。この戦いは今も終わっていません。
パレスチナ分割案
イギリスのふざけた外交で第一次世界大戦は幕を閉じます。その頃からパレスチナにユダヤ人が入植しはじめます。お金持ちが多いので、土地を買って住み始めてしまう。そこで現地に住んでいたアラブ人と対立していきます。パレスチナ問題がもう始まってきた感じがしますね。
そして第二次世界大戦ではナチスドイツによるホロコーストが起こります。世界最大のユダヤ人迫害、ユダヤ人大量虐殺のことですね。これによってパレスチナへの入植がさらに進みます。そして大戦後は、ひどすぎるホロコーストが明るみになり「ユダヤ人に国を建てさせてあげようよ」という動きが進みます。アラブ人との対立は深まるばかり。
そして大戦後の国際連合は「パレスチナに国を2つ建てよう」と提案します。これがパレスチナ分割案です。ユダヤ人からしたら「認めてもらえたー!国をありがとう!」という提案で、ユダヤ人国家としてイスラエル共和国を建国しました。
全部で四回起こる中東戦争
でもアラブ人からしたら「新参者のユダヤ人には土地をあげたくない」という気持ちが強かった。そのためアラブ人は受け入れません。他の中東の国々も、イスラム教ではなくユダヤ教であるユダヤ人の国家をよく思わなかった。これによってヨルダン・エジプト・シリアも立ち上がり、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が起こってしまいます。
でもイスラエル共和国が勝ちました。今も続く戦いと言いましたが、周りをイスラム教国家に囲まれているにも関わらずユダヤ人国家が戦い続けられているのは、反発を突っぱねるパワーがあるからです。一つの理念のもとに集まっているナショナリズムがいかに強いかということがわかりますね。悲劇の歴史を経てやっと建てられた国を潰されたくない、自分たちの国が欲しいというパワーで、イスラエルはめちゃめちゃ強いです。
ここでイスラエルの中にいたアラブ人は「ユダヤ人国家なんて嫌だ!」と出て行ってしまいます。そもそも住んでいたアラブ人がいたわけだからそうなるよね。これがパレスチナ難民です。
イスラエルが勝ってユダヤ人が優勢かと思いきや、やられっぱなしのアラブ人ではありません。
エジプトにもアラブ人がたくさん住んでいるんですが、エジプトにてナセルという指導者が立ち上がり「ヨーロッパの支配は受けない!アラブ人として強くなってやる!」と言います。ヨーロッパやアメリカと距離を置き、ソ連から兵器を買い、中国と国交を結びます。そしてスエズ運河を国有化します。スエズ運河はもともとイギリスが事実上支配していたので、これがきっかけで第二次中東戦争が起きました。
アラブ人が団結してヨーロッパと戦う戦争というわけです。これに参戦したのはユダヤ人のイスラエル。エジプトを叩いておきたいと考えました。エジプトは負け負けだったんですが、ソ連との冷戦を控えたアメリカに「余計な揉め事しないでくれる?」と出てこられ、戦争は取りやめになります。負けそうでしたがナセルは首の皮一枚で負けませんでした。
ここで勢いが死ななかったアラブ人は「アラブの統一」を掲げます。でもどうにもうまくいきません。アラブ連合共和国を作っても3年で崩壊したり、アラブ人のリーダー立場の取り合いでイラクと揉めたりします。そこでイスラエルは「アラブ弱ってる!今ならもっといけるぞ!!」とノリノリになります。そして第三次中東戦争が起こります。
第三次中東戦争は、イスラエルがシリア・ヨルダン・エジプトに攻め込み、6日間で圧勝してしまいます。ナセルは負けてしまい死没し、イスラエルは大幅に領土を広げました。
その復習戦として始まったのが第四次中東戦争です。ナセルに変わってエジプトのサダト大統領がリーダーとなり、イスラエルに攻め込みます。サダトは「イスラエルに協力した国には石油売らないからね!」と石油でコントロールしようとしたので、日本も大混乱。これが第一次オイルショックです。
そして、イスラエルは強く、またイスラエルの勝利で終わりました。
4度の戦争を経ても、イスラエルを叩いてユダヤ人を追い出すことができません。ここでサダトは、和解することにします。エジプト=イスラエル平和条約が結ばれました。
加害者側になるイスラエル
ここでパレスチナ問題は解決したのか?という疑問が浮かぶと思います。答えはNOです。アラブ人の一部であるエジプトとは和解しましたが、現地に住んでいるアラブ人は反感を抱いたままです。
でもユダヤ人のながーい歴史やナチスドイツのホロコーストを学んだ後だと、「ユダヤ人かわいそう」という気持ちがあるかもしれません。「アラブ人はもう引き下がりなよ」とも思うかもしれません。
ですが実際は、イスラエル攻めすぎなんです。第三次中東戦争のときにガンガン攻めすぎて国際法を破ってしまい、そこから入植もしまくっているんですがこれもダメなことなんです。だから今現状高校生が抱いているフワフワしたイメージ「イスラエルってなんか怖くて戦ってるんでしょ?」というものは案外間違いではありません。第三次中東戦争から、イスラエルは被害者から加害者に回ってしまうのです。
加害者に変わった後、住民たちが反イスラエルを掲げてゲリラ活動をしていきます。これらの組織をPLO(パレスチナ解放機構)といいます。アラファト議長が指導者です。テロやハイジャックなどでゲリラ武装闘争を行っていく。イスラエルからすると困ります。
そして国際的にも放っておけなくなったのが、湾岸戦争時。湾岸戦争は直接パレスチナは関係ありませんが、同じアラブ人であるイラクのフセインが「パレスチナをイスラエルから解放しろ!」と怒ります。これによってミサイルなども発射されたので、国際的に「なんとかしないとゴタゴタが大きくなっちゃうよ」という風潮になった。
そしてパレスチナ暫定自治協定が結ばれます。
パレスチナ暫定自治協定~現在
パレスチナ暫定自治協定。オスロ合意という方がニュースでは聞くかもしれません。イスラエルとパレスチナ、つまりユダヤ人とアラブ人が共存できる道をようやく探し始めたんだね。ここが「結」となるところではあるんだけど、もう少し続きます。
オスロ合意で決まったことは、イスラエルはパレスチナの暫定自治を認めること。そしてヨルダン川の西エリアとガザ地区にいたイスラエル軍は撤退すること。
これで話はまとまるはずだったんですが、イスラエルは軍をなかなか撤退しません。また民衆が暴動を起こします。それに対抗してイスラエルは、ヨルダン川西エリアの境界線に高ー-くて長ー--い壁を築いてしまいます。万里の長城のような、ベルリンの壁のような。「これでイスラエル側にテロがこなくなってハッピー!」といった具合に、壁を作ってしまいます。何も解決してないんですが、とりあえず近辺のドンパチは収まりました。イスラエル側からすると「もうこれで解決でいいんじゃないですかね?」という状態。
そしてパレスチナに住むアラブ人たち(パレスチナ人)はというと、内部分裂をしてしまいました。イスラエルとの和平派と過激派に二分してしまいます。
二分…?ここで地図を思い出してください。パレスチナ自治区って、飛び地になっていましたよね。そう、このヨルダン川の西エリアとガザ地区とで考えが分断されてしまっているんです。
ということで、パレスチナ側も強く和平を要請できず、イスラエル側は壁を築いて現状維持。ということでパレスチナ問題は現在に至っても尚解決しないままになっているんです。
パレスチナ問題まとめ
さて、ここまで長々とパレスチナ問題に関わる歴史をなるべく詳しく2000年以上遡ってご説明してきました。理解できましたでしょうか。
ざくっとご説明したバージョンは以下の「小学生でもわかる」記事をご覧ください。同じ起承転結の区分けでもっともっとざっくり書いています。
高校生にとってこのパレスチナ問題が難しいのは、歴史が横軸でも縦軸でも理解していないといけないからです。ヨーロッパの歴史ばかり覚えていて、それのおまけとして中東を扱っていると縦につなげたときにどうなっているのかわからない。縦で繋げられても、同時期のヨーロッパがどうなっているかわからない。こういった状態が多いのでパレスチナ問題は穴だらけになってしまいがちです。
今回、参考書やwikiなど複数の資料をもとに中東の歴史をまとめてみました。この流れを理解して語れれば難関国公立受験世界史も怖いものなしですよ!終わります。